大学楽しかった

 

 

以前、小中高に良い思い出がなさすぎる。という話を書いたが、そんな私でも大学生活はかなり楽しかった。

 

 

私は子供の頃から読書が大好きだった。

 

四六時中なにか読んでいたし、休みの日は図書館に入り浸り、親に強請る誕生日プレゼントは本か図書カード、休み時間はずっと図書室にいる、といった感じである。

 

下校途中に歩きながら読書していて知らない人に怒られたことも多々あった。

 

ある日、いつものように読書していると、自分の好きな本の作者のプロフィールには大体某大の文学部卒、と書かれていることに気付く。

 

親に「文学部ってなにー?」と聞いてみると、「本とか歴史についてお勉強するところだよ。あとは作家になる人が多い」と言われた。(今にして思えばそんなことないんだが。まあ子供向けにざっくり説明したんだろう)

 

なんだその楽しそうなところは。

 

大好きな本や歴史について勉強できたらどれだけ楽しいことか、考えるだけでわくわくした。

 

その時から私の将来の夢は、「文学部に入ってお勉強すること」になった。

 

高校に上がって大学受験が身近になってきても、その思いは少しも変わらなかった。

 

絶対文学部に入って大好きな日本近代文学を学んでやる、その一心で受験勉強した。

 

小中高と人間関係で地獄を見ていた私は、なぜか「頭のいい大学に入ればきっとこんなつらい人間関係に煩わされることもなくなるはずだ!」と思い込んでおり、その気持ちも勉強への打ち込みぶりに拍車をかけた。

 

結果、第一志望の文学部に無事合格。

 

合格発表の画面を見た瞬間、涙が止まらなくなってマスクがビシャビシャのスケスケになったのを今でもよく覚えている。

 

推薦入試だったので春が来るのが本当に待ち遠しかった。

 

そして4月、数ヶ月待ち望んだ入学式。

諸々の手続きを済ませ、受け取ったシラバスには素晴らしく面白そうな講義が山のように載っていた。

 

どんな通販のカタログを見るよりもときめいた。

 

私の大学は2年生から専攻を選ぶシステムで、それまでは学科が決まっていないので、1年生の間は好き放題いろんな教養科目を取りまくれる。

 

2年からの専攻どこにしようかなー、なんて考えながら、面白そうな講義を片っ端から履修しまくった。

 

大好きな文学だけではなく、哲学、映画や西洋史共産主義社会学政治学の講義なんかもあった。

もちろん「シラバス詐欺」と言われているようなキツくて面白くない講義にもぶち当たったが、大概は面白くて知的好奇心を満たしてくれるもので、存分に楽しめた。

 

講義だけではなく、図書館の資料の豊富さにも興奮が止まらなかった。面白そうなものを片っ端から借りまくってどんどん読んだ。

 

2年からは日本文学の専攻に進んだが、大学のシステム的にその時点でも一般教養をたくさん履修する必要があったので、興味深いものを色々受講出来た。3年も同様である。

 

取っていた中で特に記憶に残っている講義のテーマは下記のものだ。

 

魔女裁判の歴史について

・ロシア、ソ連の歴史の概説

・映画の様々な表現技法について

・中世ヨーロッパの歴史概説

英米ゴシックホラーと吸血鬼について

・カルト宗教のマインドコントロールについて

・聖母被昇天図像について

 

日本文学がいちばん好きだが、西洋史にもかなり惹かれていたのでヨーロッパの歴史についての講義は随分取った気がする。美術の講義も楽しかった。

 

ちなみにこんな書き方をしておいてなんだが、成績は全然良くなかった。

時間にルーズで遅刻と寝坊ばかりしていた。

いわゆる絶起というやつだ。(死語かもしれないが)

 

試験やレポートはいい加減にやり過ごしていたうえ、あまり書くのも上手くなかった。

自分はアカデミックな方面には向いていないんだなとかなり早い段階で痛感させられたので、院進はやめた。

 

そんな感じなので4年から本格的に書き始めた卒論の出来もすこぶる悪く、到底人に見せられたものでは無い。

 

私の卒論はゴミだが、ゼミは楽しかった。

好きな小説やおすすめの本について語り合える友達がたくさんできた。

 

ゼミに入る前、1〜3年の間も、面白くて博識な人たちとたくさん知り合うことが出来て、毎日愉快だった。

 

私はTwitterで所謂大学垢というやつをやっており、ツイ廃で暴れ回っていた痛々しいイキり大学生だった。

今にして思えば黒歴史そのものだが、それ経由でかなりいろいろな人と知り合うことが出来たし、面白い映画や文学についてたくさん教えて貰えた。

 

特に刺激的だったのは1年生の語学のクラスだ。

未だにたまに会っている、私の数少ない貴重な友人たちである。

 

彼らの大半は(これは私も含む。もちろん真面目で成績優秀な子もちゃんといたが…)授業に対する意識は著しく低く、欠席率と遅刻率が異常に高かった。

GPAも低空飛行の奴ばかりだった。

 

だが、文化意識は高く、映画や美術展の話題には事欠かなかった。

上野で𓏸𓏸の展示始まったよね〜と言えば、半数以上が行った行った!めちゃくちゃよかったよ!と言う。

古本市や映画、演劇の公開についても情報が早かった。

 

私たちって勉強意識低いくせに文化意識高いよね〜wとよく笑いあっていた記憶がある。

 

大受験のマンガで、藝大卒の人が「中高で同級生にクラシックや絵画の話をしても誰にも通じなかったけど、大学に入ったらみんな知ってた。それが本当に嬉しかった」と言っていたのを見たことがある。

 

私の場合文学部で、江戸川乱歩谷崎潤一郎源氏物語枕草子で同じことが起きた。

 

大学に入って得られたものはいろいろな教養と、それまでの人生で誰とも、ほとんどまともに語り合えなかった趣味に関して色々話せる、貴重な友達だ。

 

とにかくオーダーメイドのように私にぴったりはまった、心地いい空間だった。

 

成績こそめちゃくちゃに悪かったが、自分なりに充実させた4年間だった。

 

ネットでは大学の話になるとどうしても大学名や受験方式だけに固執する、いわゆる学歴厨が幅をきかせるが、それは勿体なさすぎる。

 

文化資本をフルに使い倒し、文化レベルの合う友達を見つけられる最高の場所なのに。

 

(これもこの前藝大受験の体験記動画で見たのだが、『大学は学生を食い物にするところ。逆に利用してやるぐらいの実力がないと行く意味ない』的なセリフがあった。まさにその通りだと思う。宝の山のような図書館や面白すぎる講義たちを素通りするの本当にもったいない)

 

あの時知的好奇心を刺激されまくったからこそ、卒業してうだつの上がらない社会人をやっている今でも、読書と美術館だけを生きがいにして生きていくことが出来る。

 

いつまでも知性と好奇心を失わず生きていきたい。

 

 

 

 

余談ですがそんな感じで興味のあるものにしか触れていなかったら就活大コケして瀕死になりました。今は出世コースから外れて薄給底辺OLをしているぞ!

小中高に良い思い出が無い

 

 

(学校に良い思い出が無い、というタイトルにしていましたが、大学は楽しかったので変えました。それに関してはまた書くと思う)

 

卒業シーズンになったからか、高校は楽しかった〜とか10代に戻れるなら戻りたい〜というポストがたまに流れてくる。

 

私は全く共感できない。

大学に入るまでずっと、学校という空間が死ぬほど嫌いだった。

 

別に勉強は嫌いでは無い。というか、好きだ。理系教科以外。

 

ただひたすら学校という空間が自分に合っていなかった。

地獄だった。

 

ちなみに辛さの度合いにレベルをつける(?)なら、

 

中学〜高1>>>>>>絶対に越えられない壁>>>>>>>小学校6年間>>>>>>>>>>越えられない壁>>>>>>>>高2〜3

 

といった感じである。

(中高一貫校に通っていたので中高の区切りが曖昧である)

 

学校ではずっと変わったヤツ扱いされていた。

 

別に自分のことを変人だとは思っていない。

 

ただ、集団生活が苦手で、人付き合いが得意ではなく、かなりマイペースなタチなので、子供の頃本当に本当にしんどかった。

 

まず私は動きがトロく、運動がめちゃくちゃに苦手だ。

動作なんかもよく挙動不審〜wとバカにされがちだった。

体育の授業でもたついていた私の動きがミーム化されてネタにされていたこともある。

(いま考えると面白いな。猫ミームかよ。でも当時はキツかったな!○ね!!!!!!)

 

そして根暗で内気で友達が少なく、読書が心の拠り所であり、子供のくせになんの可愛げもない「ひねくれ陰キャ」だった。

 

それなりに勉強が出来たせいで親や先生からは気に入られていた。

逆に同級生からは

「あいつ自分のこと頭いいと思ってるよなw」「頭いいからって他人見下してるよなw」

「先生に気にいられてるからって〜w」

みたいなことを言われて結構嫌われていた。

 

まあこれは私の言葉足らずさや愛想のなさ、あとは普通に小生意気なクソガキだった、という諸々の要素があってのものだろう。

今考えても相当嫌なこましゃくれた小娘だったので、きっと周りが全部悪いわけではない。

 

それでも辛いものは辛かった。

 

そんな感じで顔が可愛くないうえに挙動不審、愛想のない捻くれ者だったせいで一軍女子やクラスメイト、特に男の子にはかなりイジられた。

キツくて男が無理になり、女子校に進んだ。

 

もういじられるのは卒業〜!!!やったー!と思ったのもつかの間。

女子校は可愛いが全て、美人こそ正義!という世界であり、誇張でもなんでもなくブスには人権がなかった。

 

何かにつけてまあお前は可愛くないし〜wみたいなことを言われた記憶がある。

 

ブサイクなのは事実だから仕方ないのだが、それにしても結構しんどかった。

 

特に中3〜高1は同じ部活の子からSNSで陰口を叩かれまくり、ブスのくせに〜みたいなことをさんざん言われていて毎日学校に行くのが憂鬱だった。

 

どうにもできず、耐えるしかなかった。

 

数人の優しい友達が毎日声をかけてくれたおかげで、なんとか不登校にはならず、学校もやめずにやり過ごせたが本当に地獄だった。

 

高2からはあえて受験勉強に没頭し、陰口を気にしないように努めてやり過ごした。

ひたすら勉強していれば、部活やSNSの悪口がしんどいのも紛らわせて、幾分か楽だった。

 

あの時仲良くしてくれていた数少ない友人たちには感謝しかない。

間違いなく彼女たちがいなかったらドロップアウトしていた。

 

今でこそ「いやー、あの頃はキツかったよーw」なんて笑って話せるが、当時は授業時間以外いらないのに、授業の時間だけ終わったら爆速で帰宅したいのに、としか考えていなかった。

 

卒業式は寂しさや感動よりも「やっと解放される!もう制服を着て嫌な思いをしなくていいんだ!」という喜びでいっぱいだった。

よく耐えた自分を褒めたい。

 

大学からは本当に楽しかった。

社会人になった今はもっと息をするのが楽だ。

 

働くことは好きではない。

でも少ないながらに自分で稼いだお金で読みたい本を買って美術館に行って、美味しいものを食べる、そんな生活が気に入っている。

 

学校生活がしんどい、死んでしまいたいという10代の人たちはきっとたくさんいるだろう。

所謂『ぼっち』の人たちには、大人になってからの方がずーっと楽に生きられるよ、ということを伝えたい。

 

大人は周りの目を気にしないで自分の殻に篭もれる。

 

よく子供は無邪気で純粋だ、なんて言うが。

私はその邪気がないからこその残酷さにたくさん晒される学校生活が大嫌いだった。

思春期特有の階級意識や容赦のない悪意は心をガンガン抉ってくる。

 

自分の意思でそんな価値観から抜け出したいと思っても、学校という世界が全てでどこにも逃げ場なんてない。

 

だからどんなコミュニティにも属さなくて良くて、自分のペースで生きられる今が本当に生きやすい。

 

今になってみればあの最悪の10代だって、無駄ではなかったのかなーとすらちょっとは思えてくる。

(本当にちょっとだし、絶対に戻りたくはない。戻されるぐらいなら死ぬ。いじめられてた時期キツすぎてあんまり記憶ないし)

 

でも今は楽しいです。

 

高校やめるか死ぬかしたいと思ってた昔の私へ。

大人になったら楽だよ。死ななくてよかったね。

 

同じ気持ちで毎日学校行きたくない中高生がいたら、もったいないからまだ死なないでね、と伝えたい。

 

生きてりゃ必ずいいことあるよ!みたいなのは好きではない。

基本的に人生はキツくてしんどいし、嫌なことの方が多い。

 

それでも大人になって得た、楽に呼吸できる時間だけは間違いなく幸せだ。

これを味わえずに人生終わらせるのは勿体ない。

 

だから学校が辛くても、一旦大人になるまで生きてみてほしい。

 

そのうち好きな物だけに触れて、自分を大切にしてくれる人とだけ付き合えるようになるから。

 

私はこれからも好きな本を読んで、好きな人とだけ仲良くしていくつもりです。

 

なぜ美術館が好きなのか(どうしてAI絵はなんか嫌なのか)

美術館に行くことが大好きだ。

 

子供の時は小さい兄弟がたくさんいることもあり、あまり家族で行くことは無かった。

 

高校生になった頃から、その当時いちばん仲が良かった友人と頻繁に出かけるようになった。

 

都内の美術館は高校生無料日という最高のシステムがある。

おかげで、めぼしい展示を見つけ次第ガンガン通いまくることができた。

 

大学生になってからは料金が一気に上がったけど、それでもキャンパスメンバーズの恩恵にあずかり、展示替えがある度に上野や六本木、横浜、とにかくあらゆるところに足を運んだ。

土日は混みすぎてまともに見られないので、美術館巡りのために全休まで作っていた。

 

社会人になった今でも、興味のあるものを見つけたら必ず行くようにしている。

ここ最近のチケットの値上がりは貧民にはなかなか厳しいが、それでもほぼ毎月必ずどこかには行っている。

 

今年に入ってから、「あれ、私って年間どれぐらい美術館や博物館行ってるんだろ…?」と思い、行くたびに写真を撮ってインスタのハイライトに纏めておくことにした。

 

2月の時点で既に7回行っているのだが、(そこまで多くないだろって突っ込みは一旦ナシで)ではなぜそんなにも美術館に吸い寄せられているのだろう…??

 

別に私は絵を描くのが好きなわけじゃない。

というか絵は一切描けないし、美術の成績も至って普通だった。

 

審美眼や知識もそんなに持ち合わせてないので、見たところで「この技法が〜」とか「この時代の作風は〜」みたいな講評をするわけでもない。いや、「できない」が正しい。

 

あー、これなんか好きだな、とかその程度である。

(これに関しては只只自分の無学さが悲しいので、もっと見る目を養いたい)

 

話が少し脱線したが、じゃあどうして美術館にそんなに通っているのか。

 

絵を見るだけなら別に今の時代、インスタや画集が山ほどあるし、わざわざ家から電車乗り継いで上野に行って2500円近く払う必要はないのだ。

 

それでも美術館に行くのは、没入感を求めているのだと思う。

 

企画展というのは基本的に、その人の人生をなぞりつつどうしてその画風が確立されたのか、なんでこういうものを描いてるのか、というのを順繰りに紹介してくれる。

 

これはその「画家」がテーマの企画展の場合(マティス展、モネ展、ゴッホ展、みたいな)の話だが、表現技法や時代の波をテーマにしたもの(最近だとキュビズム展、印象派展など)でも、なぜそれが流行ったのか、その昔はどういう時代だったのか、というバックボーンを含めて文化を紐解いてくれる。

 

芸術や文化、文学に触れる時、見ているのは単なるその作品の出来だけではなく、どうしてそれが作られたのか、そこに至るまでどんな物語があったのか、だろう。

 

だからなんの苦労もなくポンっと生み出されてしまったAIアートは忌避されるし、たとえばダンスやフィギュアスケートなんかにしても、その選手が努力してきた過程も込でみんな感動しているのではないか。

 

ロボットが全く同じダンスをしたとして、そこに感動があったとしても、それは「そこまで踊れるようになったロボットを作る人間の技術と試行錯誤の過程」に対するものであって、「ロボットの動きそのもの」への感動ではない。

 

もちろんAI絵だって人工知能が絵を描けるぐらい発展したという事実は紛れもなくすごいし、感動的だ。

だがそれは上述のロボットの踊りと同じように、バックにある人間の技術へのリスペクトであり、その技術に乗っかって出力だけされても、という話だろう。

 

モネの睡蓮を見る時、ゴッホの自画像を見る時、「すげー!上手すぎ!」だけじゃなく、「ああ、こういう人生送ったからこういうものを描くんだ…」「この時期はこんなふうに悩んでいたからこういう表現なんだ」と思うだけで面白さが段違いじゃなかろうか。

 

中野京子さんの『怖い絵』シリーズを読むと、時代の波や制作背景を知るだけで、「ただ綺麗な1枚の絵」だったものが一気に物語を魅せてくれるのがわかる。

 

美術館の展示は、そういった背景について余すことなく教えてくれるし、ただの文章だけでなく展示の配置や作り、見せ方でその「物語」に見る人を没頭させてくれる。

 

画集を読むのももちろん同様の楽しみがあるが、臨場感と没入感という点で美術館に軍杯が上がる。

 

著名な画家の脳内や、今に伝わる文化が生まれた激動の時代を垣間見たような気持ちにさせてくれる。

 

だから私は美術館に行くのが大好きだ。

 

絵を買えるわけじゃないのになんで見に行くの?絵描くの好きなの?とかたまに言われるが、そういうことではない。

 

きっと似たような理由で、文学館に行くのも好きだし、本を読むのも一生好きなんだろうな。